2010年4月13日火曜日

自由心証主義について

10/12/02
裁判の仕組み 10(自由心証主義
弁論主義と言って、当事者の主張に拘束されると言ってるかと思うと、自由心証主義等と言って自由に認定出来ると言うと、法律家が訳のわからない事を言って、素人をごまかしていると思う人もいるでしょう。
『だから専門家などと言うものは信用出来ないんだ』『法律家と言うのは坊さんの現代版だからうまい事を言ってごまかすのが商売だろう』と、言う人もいるかも知れません。
紛らわしい事ですが、裁判所が拘束されるのは、主要事実と言って、『お金を貸した』と言う主張です。送金したか、手渡しか、または誰それの立ち会いで渡したという争いは、主要事実ではないので、裁判所が自由に認定して良いのです。
或いは、返したと言う事が争点の場合、返し方は、自由に認定しても良いのですが、被告が返したと言っていないのに、(時効だけを主張している時に)時効を認めないで、返した事を認めるのは許されません。
話が前後しますが、自由心証主義と言うのは、裁判所が証拠に基づいて事実を認定する時のルールの事です。
裁判所はいろいろな証拠や法廷に現れた事情全てを総合して、(弁論の全趣旨と言います。)自由なる心証によって、認定して良いと言うのが自由心証主義です。
これを聞くと、『へえ~、自由気侭に認定されたのでは叶わないなあ、』と言う疑問を持つ人が多いと思いますが、自由心証主義と言うのは、自由気侭な認定を認めているものでは有りませんので心配はいりません。
自由心証主義に対する概念は、法定証拠主義と言います。
特定の証拠が有れば、特定の事実を認定すると言う方法ですが、これだと一見わかりやすい様ですが、物事には例外的な事情が無数にありますが、これを予め法律で定めると言うのは不可能ですから、結局法網を潜るようなずるい人だけが得する事になって、社会正義が保てません。
自由心証主義と言っても、事実認定は、経験則に従わねばならない事になっていて、これに反した認定は上級審での破棄を免れません。


10/13/02

裁判の仕組み 11(経験則と自由心証)

自由心証主義と言っても気侭な認定を認めるのではなく、予め法定されていないと言うだけで、経験則に拘束される事を前回のコラムで説明しました。
では、経験則とは何かと言いますと、何が経験則であると言う事を法定しないのが自由心証主義ですから、(予め法定したのでは法定証拠主義になってしまいます。)事件ごとに判例の積み重ねと常識で決めて行くしかないのです。
例えば、お金を支払ったと言う証拠として、相手の名義の銀行口座への送金の領収書を提出したとします。返してもらっていないと言う原告は、このままでは、返して貰ったと言う認定を裁判所からされてしまうでしょう。
これを覆すには、『その振り込み領収書は偽造である』または、領収書の成立は認めたうえで、『銀行口座は、自分名義では有るが、被告が管理していた口座である』と言う事を証明したときは、更に心証が逆転します。
被告は更に『一定期間、自分は管理していた事が有るが、送金した頃には、通帳も、印鑑も、キッシュカードも返していた』事を証明すれば再逆転になります。
このように事件の状況に応じて、事実上の立証責任が、(法律上の立証責任は変わりません。これもややこしい観念ですがまたの機会に説明します。)
転換して行くのは、経験則に従って証拠認定されるからなのです。
こうしたルールを、ありとあらゆる事柄に関して、法律で予め決めておく事は不可能な事がおわかり頂けたでしょう。
しかも科学技術や生活様式は日進月歩ですからなおのことです。
こうして現在では自由心証主義が良いとされているのです。


出所(稲垣法律事務所)




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